サイレンススズカ
僕の人生の中で
動物の殺処分という言葉と初めて出会ったのが
1998年11月の天皇賞(秋)の中でサイレンススズカが骨折した時です。
ぶっちぎりで逃げるサイレンススズカがレース途中で跛行をし始めたあのレースの時
僕はまだ10歳だったわけですけれども
当時の競走馬の手根骨骨折がイコール殺処分になるという事実をその時に初めて知りました。
今でもまだ結構鮮明にその時の記憶が残っているので
よっぽど自分の中で衝撃的だったんだと思います。
当時どういう感情を抱いていたのかの詳細を思い出すことはできませんが
強い悲しみと憤りを覚えたように記憶しております。
その3年後にミニチュアダックスを家に迎えたことが
のちに獣医師を目指すきっかけになるわけですので
その時点では獣医師という仕事に対して、特に思い入れもなかったはずですが
当時小学生の僕は
骨折しただけやのに死ななあかんのかあ、と考えたんだと思います。
どうにかならんもんなんかなあ、と。
殺処分とは少し意味合いが異なるのかもしれませんが
安楽死・安楽殺というワードとは定期的に向き合わないといけない場面が訪れます。
僕のあくまで個人的な見解ではありますが
小動物臨床に携わる獣医師として
予後不良症例に対して、苦痛の軽減・解放を目的とした安楽死の選択はあったとしても
治療する技術・知識・経験がないから安楽死という選択はあってはならないと思っています。
いや、当たり前でしょ、となるかもしれませんが
実際にそれを実践するのは結構大変でして
昔は予後不良とされていた疾患でさえ、医療が進歩すれば寛解・完治する可能性が出てくることもある時代です。
常に情報をアップデートし続けなければ、不要な安楽死を完全に無くすことは無理なような気がします。
僕はこの動物病院で働き始めてすぐに
慢性腎臓病の猫さんが腎臓の数値が高いから安楽死した方がいいですと勧められる現実が
本当にこの日本にあるんだなあと衝撃を受けました。
地域性もあるんでしょうし、病院さんごとの考え方もあるんでしょう。
ただ、僕はサイレンススズカの時と同じように
もうちょっと何とかならんかったんかなと考えてしまいます。
そこは小学生の時と変わりないのかもしれません。
他院さんで安楽死処置を勧められて
その後当院にいらっしゃって3ヶ月・半年・1年以上頑張ってくれた子もおりますし
二年前に告げられたけど、今もなお懸命に生きておられる猫さんもいらっしゃいます。
そういう現実があるのは事実なわけで
安楽死が苦痛からの解放ではなく、治療からの逃げの選択になっていやしないかな、と感じるんですね。
なんとかできないもんなんでしょうか。
もうすぐ今年も終わるんだなあ、そういえば有馬記念がもうすぐなんだなあ、とか考えていたら
ふと、サイレンススズカのことが頭を過ぎったので、思うことを書いてみました。
動物の命を助けたいから獣医師になったんだから
獣医師として、できれば安楽死はしたくはありません。
できるだけしないために勉強を続けるのかもしれません。
昨日の夜は消化器薬のセミナーでした。
そうやって、知識を少しでも蓄積していけば、不要な安楽死というものは減らせるのかなと思います。
それでは、今日はこのへんで失礼いたします。