憂い
一人の住民のクレームがきっかけで公園廃止が決まった
長野市の公園廃止問題で
そのクレームを申し立てた大学名誉教授の方が批判されたりしています。
確かに、少子化の時代に子ども達自身であったり
子どもたちが遊べる場所を守るということは大事なんだと思います。
ですが、実際にどのくらいの騒音などに悩まされていたのかは
おそらく当事者である大学教授のご家族しかわからないように思います。
当の本人たちの状況が良くわからない状態で
どちらかの人たちを一方的に批判・避難したりする人たちのことが僕は苦手です。
きっと双方に言い分はあるわけで
その内情を知りもしないで、ただ批判するのはなんだかなあと思うわけです。
自分の心の中で思うだけなら別にいいとは思うんですが
その批判的な発言をわざわざSNSで発信したり
当事者の方々に直接非難の言葉を浴びせたり・・・
何でそんなに人を否定するのが好きなんでしょうか。
確かに色々と議論することは大切だと思いますし
そういった議論から問題点が浮かび上がり、次の命題の解決策を生み出してくれる結果へと繋がることはあると思います。
ただ、それはあくまで一般論に置き換えて議論すべきだと思います。
今回のケースだったら、クレームを言うきっかけとなった具体的なエピソードだとか
クレームを言っている人が大学の名誉教授だとか
そういうことを議論しても仕方がないと思うわけです。
話し合うべきは、どうやったら住民と公園を共存させることができたのか?とかそういうことなんじゃないかなと。
当院のクラウドファンディングの件でも
SNSの力をお借りして、皆様に拡散していただいているおかげで
現状の支援人数に繋がっているのだと思いますので
そういった意味合いでのSNSの役割というものは素晴らしいものがあると思います。
ですが、ただ人を批判するためのツールとして使用されるのは、すごく悲しいですよね。
当院も、低評価口コミの書き込み・誹謗中傷・非難の嵐などを覚悟した上で始めたクラウドファンディングですが
ただ純粋に支援したい人は応援してくださって
支援したくない人はスルーしてくださる。
そういう感じの世の中だったら生きやすいんですけどね。
何かあったらすぐに槍玉に挙げられ、炎上させられてしまう世の中はちょっと辛いもんがありますね。
今日はこのへんで失礼いたします。